月光とピエロ 月光とピエロ
堀口 大学 (2006/02)
日本図書センター


職場の新着案内に載っていたのでうっかり借りてしまいました。

詩は、好んで読むわけではありませんが、綺麗な言葉を綺麗に使った詩を読むのは好きです。浪漫派くらいな感じですね。
だから、旧かなづかいの詩がものすごく好きです。韻文はそうでなきゃ!みたいな感じですね。しかしながら自分では嘘旧かなしか使えないのですよ……もっと勉強しなさい!という感じですね。

この本は、タイトルはかなり長いこと知っていましたが、読むのは初めてでした。だから、予想と違っているところがかなりありました;;
もっとはかない感じなのかな〜と勝手に思っていたのですよ。でも結構主張が激しかった;; まあ、詩人というものはそういうものなのかもしれませんね。

月光というものが好きです。
もとより、太陽よりも月を好む人間でした。
光があるから影がある。
月は、太陽の光を受けて、初めて輝くことができるのです。
その、はかない光が大好きで、だからこそ、この本もタイトルだけはすぐさま覚えていたのでした。興味深く、楽しみにしていたのです。
でも、やはり詩を読む機会というのは小説に比べて遙かに少ないのですね。長いことかかってしまいました。
でも、読めてよかったです。
また、少し、詩を読んでみたくなりました。

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きらきらひかる きらきらひかる
江國 香織 (1994/05)
新潮社


私が最初に読んだ江國さんのお話がこれでした。
深い意味はなく手に取った本だったのを覚えています。
当時、映画化されて話題に上がっていたのではないでしょうか。
でも、主演の人に興味がなかったので、本を読んでなおさら見る気がなくなったのを覚えています。

アル中の笑子とゲイの睦月はセックスレスの契約夫婦。
互いに家族を安心させるために結婚をした。
睦月には紺という恋人がいて、三人は仲良く過ごしていた。
ところが…。

という感じでしたよね?
私は、紺くんが大好きだったのです。
さわやかなんですよね、彼は。
ちゃんと男の子で、芯の強さを持っていて、なよなよしてなくて、好みでした;笑。
笑子ちゃんのもろさとか、精神的な弱さとか、自分はそうはならないと思うのだけど、ひょっとしてそうなるかもしれない部分があるのは否めない感じがあります。なんだかねー。とても女の子らしいキャラだなあと思います。

なんか、思い入れがありすぎてうまく語れません。
江國作品の中では異色な方だったと思うのですが、最近の作品は読んでいないのでどうなのかわかりません。
優しい筆致が大好きでした。

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走れメロス 走れメロス
太宰 治 (1967/07)
新潮社


マイ・ベスト・オブ太宰を『人間失格』とともに争う作品です。

太宰は好きでも嫌いでもない作家です。
その結果として、よく知られた作品以外は読んでいないという状態のままです。
読んだ中で好きな作品は、やはりこれか『人間失格』なのですね。
ちなみに、今日のお題が『駈込み訴え』なのに、本は『走れメロス』なのは、新潮文庫ではここに収録されているからです。
太宰は高校生の時に『人間失格』を読んで、それっきりになっていました。作品そのものよりも、太宰の生き方のほうに共感してしまって、かなりどうかな〜という気がしたので、あまり近寄らなかったのです。何しろ最初の単行本に『晩年』とつける人ですからねえ。よほど長生きしたくなかったのでしょうね。
私も当時は生きているのが面倒で面倒で、夭折に憧れていました。
それでよく輪廻ものとかを読んでいたんですよね。
『駈込み訴え』を読んだのはもう少しあと、某コバルト小説の影響でした;;

この話は、パリサイ人のもとへキリストの身元を売りに来たユダの訴えという告白もので、その勢いがものすごい作品です。一人称での告白体が身に迫る感じです。太宰の告白を娘さんだかが筆記したものだそうで、かくやと思わせる作品の仕上がりです。

キリストとユダ。同じ年でそれなりにうまくやれるという自負もあっただろうユダにとって、「出会うことがなければこんな苦しみを知ることもなかった」キリストという存在。惹かれながら憎み、憎みながら愛し、二律背反を抱えたままそばにいつづけるのは苦しくて…。

某野球の児童文学もそうですが、このテの煩悶を抱える人が好きです。

そして、「最後の晩餐」の場面。

自分にとっても大事な人を、その手で裏切ることを決意させた、彼の言動。

なんて切ないのだろう、と思いました。
その切なさゆえに心に残る作品です。

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「三島由紀夫」とはなにものだったのか 「三島由紀夫」とはなにものだったのか
橋本 治 (2005/10)
新潮社


『豊饒の海』に16の年に出会ってから、私の中で三島は無視できない存在でした。といって、その作品のことごとくを愛するわけでなく、一部の作品を繰り返し繰り返し偏愛していたわけですけれども。

「三島由紀夫」とはなにものであったのか?

この問いは、三島の死後に生まれ、三島とはまったく時間軸を異にして生きている私が出したい問いでもある。
何しろ、評者によってあれほど評価の分かれる人もいないだろうから。
彼をどのような存在としてとらえ、どんな立場から評するか、ということだけによっても、評価はさまざまにわかれるだろう。
それは、三島という人間が、単に「作家」という枠組みを越えて、「自分とは何か」という問いを提示し続けた結果なのだろうと思う。それほどまでに彼は孤独であり、自分の居場所を最後まで探し続けていたのではないだろうか。

橋本治氏の本を読んだのもこれが最初だ。
橋本氏といえば、『桃尻語訳枕草子』を一番に思い出す私にとって、この本はさまざまな意味で意外だった。
三島の評論もさまざまなものを読んだつもりだったが、そのどれもがほとんど三島と同年代を生きた人間の証言であったから、橋本氏のように「少し遅れた」同時代人のものの見方は新鮮だった。接しすぎていないからこそ見えるものを的確に拾い出していてくれたように思う。
知的で明快な文章で綴られる論調は非常にわかりやすく、読んでよかったと思った。

昨年、『春の雪』が映画化されたが、その続きはとても映画にはできないだろう。『春の雪』だけを取り上げることに何の意味があるのか、私には正直にいってわからないが、「豊饒の海」に興味を覚えた人にはぜひ読んでほしいと思う本であることは間違いない。

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草の花 / 福永 武彦

福永武彦は、今はもうあまり読まれていないのだろう。だが、私は結構好きな作家だ。この作品は学校の授業の課題で取り上げられたことで読んだ作品だったのだが、今でも心に残る作品だ。先生曰く、「女子供の読む作品」で文学ではないということのようだけど、それゆえ、今でも入手しやすい作品ではないだろうか。

『草の花』は「冬」「第一の手帳」「第二の手帳」「春」という四つの部分からなっている作品だ。「冬」「春」は結核で療養中の青年「私」の視点で語られている。「第一の手帳」「第二の手帳」はその「私」が療養所で出会った「汐見」という青年から手渡されたもので、その手帳に記されていたのは彼が若い時分に経験した、ある二つの恋の経緯だった。「汐見」はその手帳を「私」に託し、成功率の低い手術に臨む。

――とまあ、こんな話なんだが、私はその「第一の手帳」に記された清らかな恋が、思いのほか気に入ってしまったのだった。プラトンの『饗宴』以来、高校時代の私はプラトニック・ラブはよい、という考えに捕らえられていたということも一因だろう。そしてまた、描写がとても美しく、ふたりが河原で語らっているところとか、素敵な場面がたくさんあったのだった。

人はなぜ誰かを愛するのだろうか。
――孤独だから?
誰かに理解されたいと望むから?

人間は誰でもその内に孤独を抱えている。そして、その孤独を癒し、満たされたいと願う。だが、本当にその人が抱えているものを分け合い、理解し合うことはひどく困難なことだ。汐見が愛した藤木は最初からそんな儚いつながりを信じてなどいなかった。触れ合うことすらできなかった「第一の手帳」の恋。だが、一部だけが触れ合うことによって、ますます自身の孤独を深めることもあるかもしれない。愛した人に己の愛を否定された汐見の「第二の手帳」にはそんなことも書かれているように感じる。
そうして彼は病を抱えた身体でそこに辿り着いたのだ。
自身の孤独に疲れ、愛することに疲れて。
そうして彼はあるひとつの決断を下す。

全体として、福永の作品は重苦しく暗いイメージを抱えている。そのテーマが「孤独」や「死」などといったものである以上仕方のないことかもしれないが、それ以上に表現の美しさに呑まれた自分がいた。人間である以上は必ず向き合わねばならない部分に向き合わされた、そんな感じをもっている。

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